昭和41年06月04日 夜の御理解
例えば私共が、一万円札を、まぁ一万円札に限った事ではないのだけれどもまあ。一万円を見ましても、裏がありまた表がある。裏を見ただけでも、これは本当な一万円札だと、これは偽の一万円札と言う事が分るね。教祖の神様が信心させて頂くものが、裏と表のある心を持つなと、こぉ仰る。それのね。間違えてはいけん。例えばその、これはまあ私共で言うならば、何時もかつも、紋付袴をつけておかなければならんと云う事は無いと言う事。
はぁあの先生は、裏表がある。まぁお広前じゃあ立派じゃばってん、もう勝手の方じゃあだらしが無い。なる歩どそういう先生もあるかもしれん。けれどもどういう裏を見ましてもです、その裏がです、表と同んなじではないけれどもです、裏を見りゃあ裏を見たで私は、本当なものか、本当なものではないかという、見極めが付く様にならなければおかげは受けられんと思う。
皆さん一万円札見てからね、裏表、是は本当の一万円札、と本当の物は本当の物と分かるでしょうが。先生は本当もう勝手の方に下がられたら、もうざまなか。と例えばざまなか、そのそれが先生としては当たり前の事と思っておられるのだけれども、見るものが見ると、そう言う風な。そこで昔から良く言われております、信心の出来ない間は、勝手の方には御用に入られん、と、昔の先生方が言われた。
信心の浅い者が勝手の方に入ると、おかげを落とすと仰る。それがその教会でっちゃ、家はこげな風ばいのと言う風に思うたら、もうおかげは頂かれん。そこの見極めが付く様になると云う事が、信心が出来て行くと云う事なんだ。但し本当に教祖が仰る裏と表のある心を持ってはならんと言う事。いわゆる自分の心が神様から離れておったら駄目と。私は教祖が仰る、裏と表のある心というのは、例えばほんなら裏でです、何時も、なら私がこりゃあ私だけの事じゃ無いけれども、皆んなの場合も同じだけれどです。
何時も私が紋付袴をを着けておってもです、もう御結界におる時と私は、裏におる時の心がけが違っておったとしたら、それこそ見かけはいや、こりゃあほんなもんのごたるばってん、そりか偽もん、そりゃ通用せん。それは偽札を使う様なもんじゃ。だからおかげを受けん。神様が何時も、厳し言う矢張り、御咎めを受けなければならん、としてからの、矢張り攻めを負わなければならん。この辺の所をね、裏と表のある心という、その所をね、分からなきゃあいけんと思う。
例え先生でも矢張り、裸で居る時もある。だからといって、そのあまり赤裸々だからというて、はあ、あの先生は間違っとると、まあ言いよる様な事もあるかも知れんけれど。その先生の心の状態がぴちっと、神様からどこから打ち込まれても、ぱちっとこう受け止めれる様な物をその先生が持って御座るとするならば、そりゃ間違いのない本当な裏なんだ。例えば、裏にも本当があると云う事。
だからそこんところの言葉の所だけをですね、裏表の陰と日向の心を持つなとこう仰るからと言うて、陰と日向とこう思うたら大間違い。陰と日向の心を持つと云う事は、おかげを受けられないという心。それはです、こちらの時には信心であっても、こちらになったら信心じゃないと云う事が陰と日向なんだ。本当にこの人ばっかりはどうしたこつじゃろうかと。これだけ分っとる事あってから。と云う様な人やら、事があるんです。それじゃおかげは受けられんです。なら、本当な物であってもです。
裏を見てがっかりする人がないとも限らん。私はそれを今日ま、痛感した事ですけれど。まあ三時頃だったでしょうか。私はあのう今家族中の者がテレビを見ません。御造営の済むまで子供達なんかはもう全然見ません。けれども年寄りがおりますから、相撲のある時だけは爺達が相撲を見よる。私はお芝居が好きだから、お芝居の時だけはお芝居をまぁその時間があれば見る事にしてる。今あの源義経というのがあってますね。
あれを、丁度、今日見させて頂きよった。私は、それから必ず二番目の娘愛子に足を揉ませるんです。( ? )」神経痛ですかね、じんじんして痛むもんですから。まあ私は、暇な時にゃ揉ませる。言わば足を揉ませながらテレビを見ておったんです。ある勝手のじい達の部屋で御座いますから、まぁいっぱい散らかしてある。そこへどやどやとこう上がって来た人達がある、高柴さんの所の長男が、嫁を門司から貰っておる、あちらの今度赤ちゃんが出来ましたから。
ちょうど、今日日晴れで、あちらのお母さんがこちらへ送って来なさった訳なんです。したら、誰がお取次ぎさせて貰よるじゃろうか、そしたら久富先生、本当にもう、どうして分からんじゃろうかと私が思うのです。信心の無い薄い者が、私が例えば袴を脱いで、足をもんでもらいよる姿を見たらどう感じるだろうか。本当なものか、本当でないものか分からん者に。こう言うとを見せちゃならん。
私は先生、思うですね。そこのところ御結界に座っておる者に、ちゃんと心得なけりゃいかんです。いきなり先生は二階におんなさるよ。何処におんなさる、和は楽室におったったゃ、一片立って来といてから、お取次ぎを願わにゃ眠っておるなら、私がちゃんとたたずまいをしてからさぁどうぞというてくれなからなければ、おかげを落とす。そうでしょうが、いきなりさんぱち二階に上げてから。しかも、信心のない、その門司のいわゆる嫁の母や妹達やらを。
あら、先生ちゃあんな立派なお方だと思うっとったら、まぁ寝ながら、テレビどん見ながら、足どん揉ませちゃる、と言う様な事ではいけんじゃないか。私はそれを、どうこう言うのじゃないけれどです、それでおかげを落とす様な事であってはならん。私は又すぐ紋付袴を着けて足袋をはいてから、また先生が御祈念をしておったでしょうけれども、そして今日はま、赤ちゃんのあれ赤ちゃんを抱いて、神前にお供えされて御祈念をさせて頂いたんですか。?
【※修行生に質問をなさる】それに答えて修行生は
【はい】
【何か頂きましたか?】
【何も頂きませんでした】
のう、そげなこっちゃろうがの。頂かなきゃどうするんの。そんなら、何故私ば呼びに来んの、そげな大事な事であるのに。寝つとったってよかけん起こさんの。それこそ、あんた本当、初めて子供が初参りをしておるというのに、必ず誰かが、ご神前にお供えさせて頂いて一言なっとん神様から、子供の生涯の、ヒントになる様な事を頂く。あなたが頂かん人でもないのに、私がおらんなら仕方が無い。それがあんた、どうぞ二階に先生が御座るち言うたから、上がって来たに違いないけれど。
これでは私がね、本当の裏と表の、本当ものか嘘でないのか見極めがつかん者が、矢張り見せたらおかげを落とすのは、成程昔の先生方が、勝手で御用を頂く。信心の出来ない間に頂くと、おかげを落とすという所以があるなぁと言う事を感じたんですね。だから、私のどう言う所を見てもです、例えば私がです、本当に心にです、言わば本当に教祖が仰る、裏と表であるならば、これは仕方が無いとしましてもです、私が、あの久富さんやらね、ここでは直接私の御用を頂く人に言いよる。
ですから私がどう云う様な状態の時でも、私に打ち込む隙があるなら打ちこんでらしゃい何時でも。隙がごとしてはあぁ隙が先生出来とんなあと思うたら、打ち込んで見て御覧。ぴしゃっと、信心で打ち込んで見て御覧、と私が言う位に言うならば、神様を外さんでおる積りなんだと私は。こりゃお互いのですね影と日向とか裏と表とか、口に真を語りつつ心に真のなき事とか。というてです例えばそう云う事ではおかげは受けられるんだけれども、というてそれは何時も同じと云う事ではないと云う事。
私おりてから、また改めてそのお届をさせて頂きよった。そうしたら、ほんの今二階で見せて頂いたばっかりの、一の谷の逆落としところが今日あったその一の谷の逆落としの所を頂くのです。誰から私が、お父さんの昌生さんに、信心させて頂いておるなら、酒も飲まれん、遊びにも行かれんと云う事でじゃないよと。信心しても、遊びにでも、いわゆる友達の付き合いがあるなら、遊びにもいかんならん様な事があるだろう。お酒飲まんならん様な事もあるだろう。
けれども、心に隙を作るなと。心に隙を作り、油断をした所に、例えばあの一の谷の逆落としじゃないけれども、不意を突かれた訳なのだ。平家はそれで、総崩れしたじゃないかと。そこで、あんたは例えば、さぁ日頃信心になっておる時には良いけれども、これから、例えば遊びめ場と云う様な時には、先ず家の家庭でです、子供が休んでいる姿を思い出せ。家内達の姿を一遍思い出せと。
子供が可愛いならばです、平穏無事で順調というて、なら職場でおかげを頂いている時でもです、家庭でどう言う様な事になるやらあるやら分からんのだから。そういう順調な時程に私は本当自分の心の中にっさい、自分の子供の事を思うて見れ、親と思うて見たら「はぁどうぞ神様」と、こう祈らにゃ縋らなければおられまいが。そこに隙を作らんで済む元がある。いわゆる一の谷の逆落とし的なですね。虚を突かれて言わばその敗走しなければならんと云った様な平家のあいう運命に事に、落ちなくてもすむために。
隙を作ってはならない。影と日向と言う様な事、裏表のあってはならないけれどもです。というて、その形の上においては、何時も同んなじと云う事ではないと云う事を私共分からせて頂いて。影と日向というのは心の問題だ。言わば心にこう云う事を平気でしておる。こう云う事を神様が見なされば、神様が苦い顔をなさるだろうと言う様な事をです、心に神様を頂かんなりに、それをなされておるとするならば、それこそが、どんなにそりゃ紋付でも着けとっても、そりゃあ同じ事だと。
それは、一万円札の表だけは立派に書いてあるけれども、裏がない、ああこりゃ偽札だと云う事が分かるから、偽札としての矢張りお咎めというものは受けなければならん。札にでもやっぱり裏表がある。裏だけ見て、「あらこりゃにせものんごたるこりゃぁ一万円札じゃない」と云う訳にはいかんでしょう。ほんなもんなら裏だけでも一万円札と云う事が分かる様に。こりゃ私が完璧、私がほんなもんというんじゃないですよ。ですから皆さんが私の虚を突かれてです、先生もと云う様な所があるなら、私も勿論改心も致しますし、その改めても行かなければなりませんけれどもです。
何時もかつも、なら形の上に紋付袴を着けておると云う事ではないと云う事。問題はその人の自分の心の中にです、裏表を作らん様に。此の辺を私はあの間違いますとね、それこそ裏も表も表のごと、しとらんならんごたる思うて信心を窮屈なものにしてしまう。信心というのは、そんな窮屈なもんじゃない。どうぞ、教祖は影と日向の心を持つなとこう仰る。今日私は裏と表と云う事で申しましたね。だから、裏と表は違うのだと。 違うてもの矢張りこれがほんな札であれば、ほんな札として通用する様に、神様に通用するものでなからなければいけないと云う事。
どうぞ。